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「人文科学の基礎」最終レポート

齋藤洋子 2010/7/21

 

 

2009年の日本における自殺率は、人口10万人あたり24.4人と、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次いで世界で6番目の高さとなっている。[1]実際の数にすると、1983〜89年には上昇したものの、1978〜97年の20年間はおよそ2万5千人前後で推移していた自殺者数は、1998年を境に一気に一万人も増加し、この10年は3万5千人前後で推移している。[2]昨年一年間では、約3万2千人が自らの命を絶った。これは、市が毎年ひとつずつ消滅しているのと同じことである。しかし、このような高自殺率とは裏腹に、我が国の平均寿命は男女ともに世界一を誇っている。物質的にも恵まれ、衛生環境も整い、戦争・紛争などとは縁遠い、一見「平和で豊か」な暮らしを手に入れているにも関わらず、なぜこれほどまで多くの人が、「自殺」という究極に追い詰められた状況に至ってしまうのだろうか。

日本の自殺者を性別、年代別に分類すると、その数が最も大きくなるのは50〜59歳の男性である。全年齢で男性が女性を上回るが、これは世界的な傾向である。その理由として、成人男性に課される社会的重圧が女性よりも高いということが挙げられる。着目すべきは、他の多くの先進国においては、高齢者(75歳以上)の自殺率が最も高くなり、それ以外の年齢層では大きな差が見られないが、日本においては上述した50〜59歳代をピークにピラミッド型になっているという点である。前者のような高齢者の自殺においては、その動機が「健康問題」によりこれからの人生の見通しが明るくない、希望が持てないということが挙げられるが、後者のような、おそらく家庭を持ち、働き盛りであると思われる男性の自殺の動機としては、「経済・生活問題」が一番に挙げられる。失業者数と自殺者数の推移を表したグラフを見ても、その相関がはっきりと見て取れる。そして、自殺者数が大幅に増加した 1998年はバブル崩壊後の不況のどん底であると言われている。経済と自殺が結びついていることは間違いないだろう。

しかし、確かに経済状況が良くないにしても、日本よりも悲惨な状況の国は山ほどある。そして前述したとおり、家族やそれまでの人生、これから先の希望を一切捨て、自らの命を絶つというのはただ事ではない状況である。「経済問題」の一言で終わらせることのできる問題なのであろうか。

心理学者の榎本博明氏によると、「自殺の動機について考えていく際には、外的諸条件から推して自殺決行の引き金を引くきっかけとなったと考えられる直接的動機と、長い時間をかけて徐々に蓄積され深刻化していった心理的準備状態を区別しておく必要」があるという。つまり表だって見える条件―ここでは「経済問題」であるが―の他にも、いくつかの要因が複合して自殺の原因となるのである。そして榎本氏は、自殺について、「心的エネルギーの低下による「死にたい」気持ちの深化」が、その悲惨な行動を招く引き金になると指摘している。「心的エネルギーの低下」とは、「極端に気力が失せて、正常な心的機能が損なわれた状態」、つまり「欝」の状態である。このような心的エネルギーの低下した心理状態では、現実に立ち向かっていく力、未来を切り開いていこうとする意欲が湧かず、最終的に「死」という形で問題から逃げてしまうのだという。自殺した50代男性の職業は「無職」が最高であったこと、また近年の大規模なリストラでは主にこの年代の男性が対象となったことから、彼らが「経済問題」の被害を大きく被っていることが分かる。彼らの年代では終身雇用が当たり前となっており、高校や大学を卒業後30年以上も勤務した会社から見捨てられるというのは相当のショックであっただろう。さらに、現在の日本において、この年代が再雇用される望みはほぼ無いと言ってもよい。ひとくちに「経済問題」と言っても、現実に立ち向かい、未来を切り開く―つまり「再挑戦」が不可能で、一度失敗したら元に戻るのが非常に困難である、希望の持てない一方通行な社会的構造が高自殺率の一因となっているのではないか。[3]

日本はしばしば「閉鎖的社会」であると言われる。確かに我々は一度ある集団に所属してしまうと、別の集団に移動することはなかなか困難であり、また新たなメンバーが加わるのは入学・入社時などの特定の期間以外には殆ど無いと言える。そのような状況下で、我々は決められたメンバーと長い時間を共有することになる。「集団を大切にする」「和を尊ぶ」という概念はこのような閉鎖的な状況から生まれたのであろう。そして、「人目」や「恥」を異常に気にする。狭い、限られた人間関係の中で、日常的に他からの視線を気にしながら生きている。これは、おそらく相当なストレスが、気づかぬうちにのしかかっているのではないだろうか。現代日本において、「職がない」「リストラされた」ことは、人生の失敗であり、「恥ずかしい」ことである。そしてそれを身近な人に「知られたくない」…自殺をした人は、親戚や、近所や、あるいは友人たちからの視線の中で、肩身の狭い思いをしていたのではないだろうか。もしくは、一家の大黒柱としてその人が働く意欲の糧となっていた家族からの大きな信頼が、「失職」により一瞬にして重荷となり、命を蝕むことになったのではないだろうか。

自殺に対する社会の目というのも高自殺率の一因であると考えられる。フランスの社会学者エミール・デュルケームは『自殺論』のなかで、自殺の類型を「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」「宿命的自殺」の4つに分類した。私は、現代日本の自殺は「集団本位的自殺」と「宿命的自殺」の二つが混合しているように思う。「宿命的自殺」とは、社会的・集団的にその人が追い詰められ、それ以上身動きが取れなくなってしまったときに起こる。これは前の段落で述べたような「失職」などによって追い詰められた状況に当てはまる。「集団本位的自殺」は、個人の自我がその人自身ではなく集団におかれ、しばしば集団が自殺を強要するような状況のことである。デュルケームは以下のように述べている。

「しかし、もっとも有力な原因は、おそらく、それぞれの国民、あるいは各国民のなかにおけるそれぞれの社会集団が、どのような死に方を比較的品位のあるものとみとめているかということにあろう。」[4]

また、以下は日本の高自殺率についてのWHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士のコメントである。

「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。これは他のアジア諸国やキューバでもみられる傾向だ。」

確かに、我々は自殺をした人に対して同情的な感情を抱き、その死を悲劇として美化することが多い。また、何か大きな失敗に対し、口だけの反省では足りない、態度で示せというような風潮も見られる。我々の中に、自ら命を絶つことで罪を清算したり、名誉を守るような文化は確かにあり、それはかつての「切腹」で、現在の「辞任」や「自殺」へと繋がっている。

 では、我々は自殺を完全になくすことができるのだろうか。「経済状況が良く」て「開放的」で「自殺に対する不道徳的評価」のある社会であれば、それは可能なのであろうか。確かに、「開放的」で、キリスト教による「自殺に対する不道徳的評価」のあるアメリカ合衆国においては、自殺率は日本よりも低い。しかし、あくまでも低いだけであり、確実に自殺を遂げる人は存在する。中年層の自殺率は低いが、アメリカ合衆国では高齢者層の自殺率が高くなっている。どの国を見ても、自殺者のいない国などないのである。我々は、例えばひとつの国家や民族においてある一定の傾向が見られるにしても、それはあくまでも大きな枠組で捉えているにすぎず、性別、年代、出生、宗教、社会的状況などそれぞれ異なる条件下で生きている個人の思考や感性、特に幸福や生死に対する考え方は多種多様にわたり、ひとまとめにこうであると断定することは不可能であるということを、まず認識しなくてはならない。人間の生き方は多様である。そしてその上で、苦しみの末の最終手段としての「自殺」(ここでは主に「経済問題」「人間関係」という社会的問題に起因するものについて考える)や、それを防止することについて考えていこうと思う。

 自殺とは不幸なことなのであろうか。中には「自分で選んだ道だから、不幸ではない。悲しむのは周りの人間である」と答える人もいるかもしれない。しかし、自殺の動機の外的要因―自殺の原因はひとつであるとは言えない―として、「健康問題」「経済問題」「人間関係」の3つがほぼ全てを占めている以上、もしも何らかの形でこれらの問題を解決することが出来れば、自殺に走ることはなかったかもしれない。そしてこのような問題によって追い詰められるということは、つまりその人にとっての「こうありたい」という生活や、人生や、人間関係の像が存在しているということである。何にも縛られないですべてを受け入れる人間は、そもそもこのような問題に対してストレスを感じないのではないだろうか。つまり、上記の理由を外的要因として自殺をする人々は、生や自己に対する理想が存在し、しかし現実に翻弄され、それが叶わぬことがわかり、絶望へと追いやられた末に自殺という手段を取ったと考えられる。ここで問題となるのは、やはり「社会の一方通行性」ではないか。例えば、50代でリストラ通告を受けて職を失った人が、新たな職を見つけることのできるような、門戸の広い社会や、どんな人生を歩もうと、周りの目を気にすることなく「これが自分の生き方だ」と胸を張れる社会であれば、これほどまでに問題を深刻にすることは少ないはずだ。しかし、既存の社会形態を急に作り替えるのは至難の業である。そこで私は、「リストラされた中年による企業」を企業すればよいと考える。雇用がないのなら、自分で作ればよいのである。それまでの、一切を会社に依存していた生活を改め、自分から能動的に動くことが必要になっているのではないか。現在、若手向けの企業セミナーなどが多く行われているが、そのようなセミナーを、無職の中年層に向けても行えばよい。政府も、無理に企業に雇用を創出させるよりも、このようなセミナーを開き、中年層に活気をつけることのほうが容易にできるのではないか。何より、現在の50〜60代はいわゆる団塊の世代である。日本の人口の多くを占め、同年代同士の結束力の強い年代である。確かに日本は閉鎖的社会であるが、一口にそれが悪いとは言えないし、急には変えられぬ日本の伝統でもある。それならば、悲観するのではなく、大いにそれを利用していけばよい。それを先導する原動力として、政府や自治体が尽力すべきである。大人が「一生の恥」「もうどうにもならない」と諦めて命を絶つことは、次なる未来を担う若者たちの厭世をも招くであろう。我々は、うまく知恵を絞って目の前の壁を共に乗り切っていくことが必要とされているのである。

 

 

【参考文献】

・榎本博明『自殺―生きる力を高めるために―』(1996・サイエンス社)

E.デュルケーム『自殺論』(1985・中央公論社)

・新渡戸稲造『武士道』(1938・岩波文庫)

・ルース・ベネディクト『菊と刀』(1967・社会思想社)

・秋山聡平・斎藤友紀雄『自殺予防Q&A:自殺予防のために』(2002・至文堂)

・岡倉覚三『茶の本』(1929・岩波文庫)

・山本常朝『葉隠』(1940・岩波文庫)

・三島由紀夫『葉隠入門』(1983・新潮文庫)

・高橋祥友『自殺のサインを読み取る』(2008・講談社)

     清水康之『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(2010・講談社)

 

 



[1] 図録自殺率の国際比較(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html

[2] 自殺対策センターライフリンク『自殺者統計』(http://www.lifelink.or.jp/hp/statistics.html

[3] 榎本博明『自殺―生きる力を高めるために―』(1996・サイエンス社)

[4] E.デュルケーム『自殺論』(1985・中央公論社)